ファンシーに関する情報総合図鑑

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ファンシーでドキドキ

こんにちは♪
この前の日曜日、南青山のキスマイ大看板見た後はお友達のリクエストで代官山のパンケーキ屋さんに行きました
ランチをしっかり食べたのに、また食べるっていう(笑)
あいかわらず、ロケ地巡ると食べてばっかりになちゃうんだよね
渋谷までブラブラ歩いて、ひと駅電車で代官山へ
私、ロケ地けっこう行ってるんだけど、詳しいお友達がいたり、ナビで探しながらだったりするから、いつも場所がうろ覚え
ここだったような気がする?って路地を入ったらあった(?>?<?)

ベリーファンシーラブスアンティーナ
キスマイレージでトウガラシ入りのパンケーキを食べたお店です?

店内とっても可愛いんですよね?
太ちゃんの座ってた席は空いていなかったけど、奥の席をゲット

コースターがFだったので一緒にパシャリ!
ミックスベリーにしてみました
 フワッフワッでとっても美味しい
クッションの並んでた所はお花で飾られてましたこれも可愛い

おしゃべりしてたら、時間経つの早くて外に出たらすっかり暗くなってて、駅へ向かう途中の代官山アドレス・ディセが綺麗なイルミネーションになってました??

去年のキスブサでニカちゃんが告白した所ですね(o^^o)

今年はクリスマスツリーでしたよ

イルミネーション七色に変化してとってもキレイでした
結局、夜まで遊んじゃったね(笑)付き合ってくれたKちゃんありがとう
この前、川越の氷川神社に御朱印もらいに行ったら、ピンクのあい鯛みくじがあったので釣ってみました
大吉だったんですけど?
太ちゃんに逢えるのはいつでしょう?

ファンシーファン待望!

第181話/喰らわば          ようやく始まろうとしている範馬刃牙対宮本武蔵。武蔵はもともとバキの実力を、地平線の果てまで続く懐石料理(ごちそう)というイメージでとらえており、豊かさに関しては評価していたぶぶんがある。それが、先日あたまをくだかれそうになった花山より強く、またじぶんをも圧倒しかけた範馬勇次郎の息子だと知り、がぜんやる気になって、このごちそうを食べる日を待ち望んでいたのである。  ところが、向かい合ったバキの向こうには、もはやごちそうはない。武蔵はそれを馳走ヶ原と呼ぶ。食っても飲んでも尽きることのないごちそうの平原。しかしそれがいまはすべて食い尽くされ、失われている。一皿たりとも残されていないという。その荒涼、まるで関ヶ原。果てまで皿で埋まっているのだから、一皿たりともというのもおかしなはなしだが、武蔵はそのイメージが形容しているものじたいのことをいっているのだ。これは明らかに食べかけではない。また、料理が失われているのでもない。料理はそこにあった、しかしいまはない。「武蔵に出す料理はない」という、無意識の(?)メッセージなのである。  武蔵は貴様が食ったのかとバキを怒鳴りつける。しかし、このイメージは武蔵にしか見えていない。誰かとそういうイメージについて武蔵が語り合ったこともない。だから、バキにはなんのことだかわからない。かまわず武蔵はじぶんの解釈をいってきかせる。もう食われない、お前に出す飯などない、じぶんはもうご馳走ではないと、こういいたいのだなと。バキだけでなく独歩たちもくちをあけてなにかびっくりしている。それはまあそうだ。とりあえずバキにいえることは、武蔵がものすごく怒っているということだ。やることは変わらない。だが本気度のようなものは変わったようだ。武蔵は血の一滴までもすすりきろうぞと、なかなかの悪役顔でいってのけるのであった。  そしていつものルール説明。火器を除く全ての武器の使用が認められるということだ。そうなると当然、中央に立てられた刀を、どっちがどうつかおうと自由ということになる。しかしやはり謎なのはそれを武蔵じしんがやったということだ・・・。続けて地下闘技場のスタッフから、光成の言葉が伝えられる。この勝負はどちらが「勝つか」を決めるものだと。つまり、どちらが「強いか」ではないということである。フェアプレーはそれに次ぐものである。バキはそれに笑う。そんなメッセージは必要だろうか、求道者のうわべのしたには、史上最悪の反則真の表情が隠れている、武蔵とはそういう男だ。仮にルールで取り締まったとしても、この男は正々堂々、正々堂々(フェアプレー)をふみにじってくれると。武蔵に「フェアプレー」ということばがわかるとはおもえないが、まあ文脈からわからないことでもないだろう。じぶんの時代に比べて現代はやたら卑怯とか卑怯でないとかいうことにこだわるという実感もあるにちがいない。武蔵はうれしそうにして、光成にいらぬ世話だという。バキのほうがよほどはなしをわかっているのだ。  さて、武蔵にとってのご馳走は、なんらかの理由で喰い散らかされてしまった。では、かつてキノコ雲を武蔵に見たバキは、いまなにを見ているか。生クリームの宮殿なのである。リボンや花の装飾などもされた、やたらとファンシーな巨大ケーキなのだった。        つづく。        次週休載、11月30日発売号で2倍祭り。前回は突然の休載で驚いたが、相変わらずの難解さでひと安心である。生クリームの宮殿・・・。ふーむ。  彼らが互いに相手に見出すイメージというのは、イメージの発信者じしんが意図しているものではもちろんない。万が一そういう可能性もないではなかったが、今回のバキの発言でそれははっきりわかった。なので、これらのイメージがなんなのかというと、「はからずも発信されてしまっている自己イメージ」と「相手がじぶんにかんして見出したもの」の和、というようなことになるだろうか。それは、意識的なものも無意識的なものも含む。バキにかんしていうと、あの地平線の果てまで続くごちそうを、僕は彼の抱える技術の豊饒さととらえた。長くなるので割愛するが、それはバキが、父を超えるために必要なことだった。無数の技術を抱え、父が技術を見出さないようなところ(ゴキブリ)からも掬いあげ、なにものでもないことをまっとうすることで、なにものにもなることができる父を超えようとしてきたのだ。その経験値、また精神性のようなものを、武蔵は多種多様、無数のごちそうというふうに読み取ったと考えられるのである。これが、すべて食われてなくなってしまった。このことを、僕は、もはやバキには「なにものでもない」者である理由がない、というふうに解釈した。なにものかである以上、絶対者勇次郎に、勝てないまでも負けずにいることは難しい。郭海皇のように、自身が「なにものか」であることをきわめたような人物さえ、消力を披露ないしコピーすることで、勇次郎はその唯一無二性を否定した。だからこそ、バキには多様性が必要だった。その結果、彼はこれまで流儀をもたなかったのだ。しかし親子喧嘩は終結した。さらにいえば、彼は現在、ただ生きているだけで強くなっていく境地にある。バキは、これら手に入れたごちそうであるところの技術を取り入れて、内面化し、彼自身の流儀として、「なにものか」になりつつあるのではないかと、このように考えられたわけである。  じっさいには(武蔵だけが見ているイメージのはなしなので、じっさいもなにもないが)、そういうバキの背景が、ごちそうを喰い散らかせたのだと考えられる。だがしかし、よく考えてみると、果たしてそのばあい、残った皿は必要だろうか。バキが武蔵にかんしてキノコ雲から一転ケーキの城にイメージを変えたように、どうやら前にみた映像はそうかんけいないようでもある。武蔵は「ごちそう」を楽しみにしていたので、その景色をずっと反芻してきた、などともいえそうだが、いずれにしても、たとえばここは、なにもない平原がまっしろに広がっているとか、そういう景色でもよかったわけである。そうならないのは、意識的にか無意識的にか、バキじしんに、その、皿が喰い散らかされた光景を見せたいという気持ちがあったためかもしれない。なにもない平野は、ただ料理が片付けられただけとも考えられる。バキに備わる無数の技術を「おいしそう」、つまり「ごちそう」だと考えるのは、武蔵の主観だ。たとえばこれが寂海王だったら、同じようにバ
キの豊饒さをイメージするのだとしても、未来の可能性を感じて多くの強健な若者の姿を見るかもしれないし、なにか無数の書物のようなものを見出すかもしれない。これを「うまそう」と考えるのは、いつか食べるときを想定している武蔵の主観を出ないのである。ただたんにバキが、宿した技術を内面化し、じぶんの流儀としつつあるというだけなら、なにもない平野でかまわない。しかし、そもそもそれをごちそうと解釈するためには、食べることを期待していなければならないのだ。武蔵からすれば、喰い散らかされた料理はたしかに、もともとはじぶんのためにとっておかれたものであり、バキのほうの事情はどうあれ、食われたということにちがいないのである。もっといえば、この豊かな技術は、懐石料理であるうちは武蔵じしんも内面化可能な道具にすぎなかった、ともいえるかもしれない。しかしそれをバキはぜんぶじぶんの流儀にしてしまったのである。   さて、生クリームである。キノコ雲のときには、勇次郎やバキじしんももっていたなにか政治的な雰囲気が感じられた。つまり、国際関係上の脅威として認識されうる強さを、あのときバキは感じたのである。勇次郎が誕生したとき、世界の優れた統治者たちはみんななにか不吉な予感を覚えて核の保有を決めたという。つまり、そうしなければ国際関係のバランスが保てなくなるという予感が、彼らに到来したのだ。このことが、勇次郎を核兵器と同一視させる風潮を呼び込んだ。じっさいには、いくら勇次郎でも、核兵器と同等の破壊力を有しているということはない。そうではなく、ある国において、勇次郎と対峙しようとしたとき、核兵器の所有が必要であるとその統治者が感じたことが、間接的に彼をそのように解釈させるのである。大地震に備えて大金持ちが数億の金をかけてシェルターをつくったからといって、その大地震に数億の価値があるというわけではない、というようなことである。そうしたわけで、キノコ雲には政治的な存在価値が感じ取れる。そして、じっさいのところ、勇次郎よりずっとミクロではあったが、武蔵はある種の革命を成し遂げている。それを、バキはあのじてんで予感していたわけだ。ではそれがいまケーキになっているというのはどうしたわけだろう。キノコ雲は、国際関係上等価と考えられる、統治者の所有可能な兵器で解釈した結果の、武蔵の強さだ。それはかわっていない。とすると、たんにバキの立ち位置が変わっているだけと考えられる。つまり、あの初対面のときには、勇次郎という存在もよく知っていたこともあって、世界レベルでそれだけの脅威になりうるということを彼は実感したのである。おもしろいのは、現在のバキが「いちゃいけない」という正義よりの動機で武蔵に挑んでいることである。そうした「正しさ」よりの発想は、むしろ政治的な見方を呼び込みそうな気がする。いまこそ、バキはキノコ雲を武蔵に見出してもよさそうなものなのだ。ところがそうならないということは、実に示唆的である。彼は、まるで正義の観点から「いちゃいけない」といっているようだが、じっさいのところそれはバキの主観なのだ。これは構造的にもそうである。武蔵を「いちゃいけない」と指摘する機関は、もう日本にはない。連続殺人犯が、特に指名手配もされないまま、名札をつけて生活しているようなものである。彼の周囲ではもはや法が機能していない。武蔵は、彼の周囲にかんしてだけ有効な特別な法律を、自力でつくりあげたわけである。では国はこのさきどうしたらいいのか、というのは、また別の問題だ。だからといってバキが武蔵を殺していいということにはならない。しかしこれを行う。ケーキは、ともあれ食べ物である。武蔵がかつてバキに感じたように、バキもまた、武蔵を個人的な理由で食べようとしつつあるのであり、それは、バキが「いちゃいけない」という正義よりの発言に隠している無意識の私見を、はしなくもあらわしているのである。  しかし、これだけではまだなぜケーキなのかという謎は解かれない。食べ物であればなんでもいいところ、なぜあんなにファンシーなお城なのか。ここには、バキの幼児性への回帰のようなものを見て取りたい。彼自身が今現在も幼児的であるということはさすがにないだろう。バキは、武蔵を通して、その時代の甘い記憶を呼び起こされたのである。果たしてあんなふうなケーキを求めるようなころ、バキにはなにがあったのだろう。作中描かれているものといえば勇次郎との特訓である。あのころのバキは、別に強さなんか求めてないし、父へのうらみもないから、あんな父親との特訓なんてこわいだけだったろうが、それでも、ある種の未知への期待感はあったにちがいない。知らないものが、もやに包まれているものが啓かれていく感覚である。ひょっとしたらバキは、久しく味わっていなかったこの啓蒙される感覚を武蔵を通して味わえると感じているのかもしれない。      刃牙道 19 (少年チャンピオン・コミックス)   Amazon   刃牙道 18 (少年チャンピオン・コミックス)   Amazon   刃牙道 1 (少年チャンピオン・コミックス)   Amazon         

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